子どものころ炭鉱があった①

子どものころ、町に炭鉱があった。石炭を運び出すために鉄道があって、石炭を載せた蒸気機関車と人を乗せるえんじ色のディーゼル車が走っていた。羽幌炭礦鉄道。
9つある駅の名前を今でも順に諳んじることができる。
駅の作りはいろいろで、曙光駅なんて、広い田んぼの中にぽつんと足場のような短い木のホームが一つあるだけだった。七線沢の駅はちゃんと駅で、上りと下りに木造のホームがあり、雨風よけの待合室や、駅員さんがいる小さな事務室があった。夏のホームは陽に当たっていい匂いがして、走るとボコボコ音がした。ホームに座って足をぶらぶらした。ホームの端っこにはカタツムリ型にまいた鉄のコイルが立っていて、そこから、下り方面に伸びる線路を眺めるのも良かった
小学校4年になると、始点の築別駅までソロバンを習いに行った。ソロバンについては、いい思い出はないけど、終われば、発車時間まで駅前の広場でゴム跳びや馬跳びなんかをして遊ぶのだった。
ある日、築別駅前には大きな黒いケースがいくつも並んでいた。炭鉱で何か公演があったのだ。
「お嬢ちゃん、何年生?」一人のおじさんが話しかけてきた。

その時、わたしは気づいた。小金馬だ!テレビに出てくる、最近金馬になった人だ。そして小金馬(とたぶんバンドの人たち)は国鉄の下りホームに立って、「おじさんたちはこれから幌延まで行くんだよ」と言った。
 
15年経ったある日、電車の中で週刊文春を読んでいると、「家族の肖像」だか「家族写真館」だか忘れてしまったけど、そんなコーナーに三遊亭金馬家族が写っていた。
驚いた。田舎の駅前で、子どもに声をかけたわけがわかった。お嬢さんがわたしと同い年だったのだ。
東京から1万キロも離れて、家族とも何日も何十日も離れて、まだこれからももっと遠くまで旅をする。娘と同じ年頃の女の子を見て、娘を思い出したのだろう。グラビア写真の中の同級生に、旅の途中でお父さんはあなたを思っていましたよ、と、伝えたくなった。


それからまた、30年以上経ってしまった。
いつも、伝えたいことを伝えないまま人生を送ってきたようなものだ。

f:id:youcon:20180216094921j:image炭鉱に続く川