虻田郡虻田町字月浦

たぶん小学校5年の頃、じいちゃん(祖父)は60ちょっと前だったと思うけど、急に採石会社の専務取締役になった。新しい仕事を始めたのだ。

じいちゃんは材木とか砂利とか、そんなことを仕事としてやっていて、時々現場が変わるとそこにしばらくはいるので、手紙を書くと、じいちゃんも返事をくれた。「元気ですか、ぢっちゃんは元気です」いつもわたしをほめてくれる手紙だったけど、一番気になることは、「ぢっちゃん」なのかーということだった。

虻田郡虻田町字月浦 洞爺採石工業。今度の住所を書きながら、こんな住所やだなぁと思っていた。虻なんてその辺を飛んでる虫だし、蛇の字に似てるし、アブタアブタ重なってるし、月浦だって、浦島太郎の浦だし、古くさい!と思った。

6年生の夏休み、札幌からバスに乗り、ついにじいちゃんのとこに行くことになった。ばあちゃんとユキちゃん(妹)が一緒だった。途中の中山峠は、狭いつづら折りの道がいつまでも続いて、カーブの時はバスが道から外れているように見えた。このままでは落ちそうだぁと思っていたら、ほんとうに谷底に車が転がっていたので、胸がきゅうんと詰まった。

その怖い怖い薄暗い山道の中山峠を越えると、目の前、左側が、ぱぁあっと明るくなった。

洞爺湖だった。生まれて初めて湖を見た。ただただ広く静かで美しかった。森の中に空を放り込んだようだった。真ん中に森がぽこんと残った。

洞爺採石工業は、湖畔から少し上がったところにあって、温泉街からは遠かった。広い敷地の左奥には古い家があって、そこは飯場。じいちゃんが住んでいるのは、右手前にある6畳ほどのプレハブの建物で、窓にガラスはなく、板がはめてあった。土間には4枚くらい畳が敷いてあって、それだけ。

ただ、毎朝、ふさいだ板を外すと、窓は湖に向かって開けていて、いつまで見ていても飽きなかった。

飯場とプレハブの間には、砕いた石が大きな山に積み上げてあり、ザラザラと足元の石を崩しながらてっぺんに登った。湖がある。いい気分だった。石は、裏山の採石場から運んできていた。時々、サイレンが鳴ると発破の合図で、それで岩盤を崩すのだった。事務所(どこにあったか思い出せない)のとこのライトバンに積んである箱に、ダイナマイトと書いてあって、「ほんとにダイナマイト!!」と思った。

採石場まで、裏の崖をジグザグに登っていく。そして、採石場まで上がるとそこは一面、草や木がはぎ取られた広い無機質な世界で、ベルトコンベアが砕いた石を運んでいた。もう少し登ると、また広い緑の牧場が開け、その向こう側にはきれいな家が並んでいた。お金持ちの別荘だということだった。

一週間、ユキちゃんとわたしは、ダンプに乗って緑あふれるオロフレ峠を越えたり、向こう岸の温泉街まで歩いたり、昼間の誰もいない飯場を探検したり、飽きることはなかった。8月の洞爺湖は、毎日がいい天気だった。 最後の1日は両親が車で迎えに来て、温泉宿に泊まったけれど、お風呂がひどく混んで嫌だったことしか覚えてない。

月浦の、夢のような日々。だけど、次の夏にはそれはなかった。洞爺採石工業は倒産してしまったのだ。

あの時から、思い出を反芻しながら、時々ユキちゃんと秘密のように共有しながら、大人になった。

もうどこにもない、わたしの月浦。大人になって考えると、夜の湖のゆるく曲がった岸と広い空にある月ってすごくきれいだ。