Why Does It Always Rain On Me?

ラヴィスが歌っている。なぜ自分にはいつも雨が降るんだろう?17歳の時に嘘をついたから?

わたしが生まれた時、それまで寒かったのに急に暖気になって、ざんざん降りで根雪も溶けてしまったけど、その後ひどい雨返しが来た。そう言われるにはきっと、その後の天変地異事件?の数々が影響しているはずだ。そう言えば生まれた時だって、と。なんか訳があると思うのが人だよね。

中学も高校も修学旅行は雨だった。特に、高校の時、京都は10月だっていうのに夕立ちみたいな急な雨で、ずぶ濡れで、制服のスカートのひだがべろんべろんになった。女子はこぞってクリーニング屋さんにアイロンがけを頼んだはずだ。

でも、そんな雨はたいしたことじゃない。あの雪にはかなわない。

高校2年だったと思うけど、真冬、遊びに行った旭川から急行に乗って帰る途中の大雪。もしかしてあの汽車自体「急行大雪」だったかもしれない。そして、深川までは順調だったような気がしないでもない。深川駅で札幌から来る急行はぼろに連結されて、確かに吹雪いていたけど、ちゃんとホームに降りてウロコダンゴを買う余裕もあった。

ウロコダンゴは別として、子どもの頃からあの辺、深川、石狩沼田、幌糠あたりの1時間が苦手だった、というか景色が退屈だった。まだ自分のとこの方がマシだと、悪いけどいつもそう思っていた。そして、あの日そこを越えるのに、5時間はかかった。留萌に着いたのは夜中12時くらいで、当時は窓の下に灰皿が設置してあるくらいだったから、息苦しい煙草の煙だった。

普通は、留萌までくればあと1時間だけど、もちろん朝までたっぷり8時間かかった。汽車を降りると、午前8時の青空がまぶしかった。3時間の距離を14時間かかった。

でも、そんなことは誰にでも起こることだし(そうか?)、まあ仕方ないとも思っていた。次は何だ?

大学の夏休み、いつもは青函連絡船を降りると函館発朝4時50分頃に発車する特急「北海」か「おおぞら」のどちらかに乗るのに、その時は何を考えたのか、急行「すずらん」に乗ろうと思った。すずらんは函館発7時半頃発だったと思う。そして、長万部駅で「かにめし」ではなく「そば弁当」を買って食べ、やっぱ森の「イカめし」にすれば良かった〜と思ってる時にそれは起こった。

有珠山噴火。

外の景色に、雪ではないけど横なぐりの細かい何かが舞い始めた。そのうち何かはどんどん多くなり、外が真っ暗になって、電灯もついた。ざわつく車内。

今みたいにネットがあるわけじゃないから、乗客はざわついているだけで、そもそも肝心の国鉄だって情弱だった。最初の車内アナウンスは「昭和新山が噴火した模様です」そしてしばらくしてから「失礼しました。有珠山が噴火した模様です」と訂正された。

昼なのに暗い窓の外は廃墟のようで不気味だったけど、すずらんは進み続け、そのうち景色は徐々に透明度を増し、無事に札幌に着いた。

その次の年だったろうか、たまたま千歳から青森空港行きの飛行機があるのを知った。じゃあそれで弘前まで戻ろう、と思ったら、青森空港の上空は悪天候で、長いこと旋回したあげくに函館空港に逆戻り。出張のおじさんたちと一緒に青函連絡船に乗り換え、3時間50分かかって青森駅へ着いた。当時札幌から千歳空港はバスで70分かかったし青森上空も長かったし、函館空港から函館駅はバスだし、青函連絡船の乗り継ぎも悪いし、結局札幌駅からいつものように鉄道と連絡船で帰ると同じだけかかり、突然の移動移動対応でぐったりした。

関東に住んで、年に一度か二度しか飛行機に乗らなくなっても、吹雪の千歳空港で朝から晩まで待ったとか、羽田空港で夜明かししたとか、ある。もちろん、まあ他にもいろいろある。

雨女なのか?天変地異女なのか?

東日本大震災は歯医者の帰りで、鶴見新子安間の電車の中だった。普段は自転車通勤で、電車に乗ることなんてほとんどなかったのに。

ただ、元々電車は揺れるものなので、揺れはそれほど感じなく、そんなに大きな地震が起きていたとは思わなかった。JRも間違った。「東京で大きな地震が発生しました」

急停止しても、たぶん10分もしたら動くのだろうと思っていたけれどずっと止まったままで、ガラケーで調べたら宮城県栗原市震度7とあったので、 震度7!?と思ったのを覚えている。

1時間以上止まっていただろうか。踏切近くの最後尾ドアだけが開き、そこから降りるように言われた。それからは各自好きに歩くしかなく、わたしは横浜を目指し、途中のコンビニのやっと3軒目で携帯のバッテリーが買え、ちょうど日没頃に横浜駅に着き、駅やバスターミナルを長いことさまよったあげく帰宅難民になり、駅のモニターで気仙沼かどっかのヘリからの火事映像を見ておののき、午後9時に日産本社のショールーム上の渡り廊下にたどりつき、夜を明かした。あの時の日産の方々の親切には、感謝しかない。

それから、もう7年経った。電車通勤になって5年。雨風雪人身事故で、電車が遅れるのはしょっちゅうだけど、ほんとに大変だったのは、1度くらい。雪。あと8分で着く乗り換え駅で、来る来ると言われて極寒の夜7時のホームで1時間待ったあげく、振替輸送で乗り換え乗り換えで1時間かかって帰った、8分を2時間。もういい歳なので、大きな事件はかんべんしてほしい。雨女ではない。と、思う。軽井沢駅のホームは端っこも見えない霧だったしな。

「おいらはドラマー、ヤクザなドラマー、おいらが怒れば嵐を呼ぶぜ♩」(1957年12月)

石原裕次郎ファンの中2の明子おばちゃんがわたしの名前をつけた。

嵐を呼ぶ女、と呼んでほしい。