子どものころ炭鉱があった②

5月は胸が痛くなるほど忙しかった。 

いや、忙しくて胸が痛くなった。はあ。

そして6月も、なんとか解決しようと思う案件ばかりで、考えて、頭が痛くなっている。

気を休めるのにAmazonプライムで「孤独のグルメ」を流し見するくらいだった。

2度目のグレーテスト・ショーマンは、5月下旬、最終日に観たけど。

 

さて、炭鉱のことだ。

たとえば妹や弟にはかすかな記憶でしかないけど、わたしにとっても、父さんや母さんにとっても、閉山には大きな喪失感がある。羽幌炭礦鐵道の線路がなくなってしばらくたっても、父さんは、なくなった踏切でつい車を一旦停止してしまったものだ。

 

4月に母さんと電話で話した時、「太陽小学校の体育館の屋根が雪で落ちちゃったんだよ」と聞いた。

太陽小学校は、炭鉱にあった大きな小学校で、当時珍しい円形体育館があったのだ。

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そうだ、あの、円形体育館のまだぴかぴかの時を覚えている。だって6年生の時、太陽小学校で町内小学校水泳大会があったのだ。

海の町に育ったけど、海水浴場までちょっと距離があり、泳げる時期は7月下旬から8月中旬で、海はすぐに足が立たないくらい深くなる。そして、運が悪いと、焚き火をしなければならないくらい寒かった。水温が21度あれば水泳可、と言われたけれど、少し行くと足元の水は驚くほど冷たく、なかなか泳げるようにはならなかった。 浮き輪につかまってパシャパシャがせいぜいだった。

小学校5年になって、担任の渋谷先生が、二泊三日で近くの遠浅な鬼鹿の海に臨海学校に連れていってくれて、やっと泳げるようになった。泳ぐのはとても楽しかった。

そして6年生になると、渋谷先生は、今年は町内小学校水泳大会に出る、と言ったのだ。女子11人のうち4人がリレーに出ることになって、わたしたちは遊びと練習を兼ねて、バスに乗り、氷切り場だったという望潮山の上のプールまで毎日のように通った。暑い日差しの下、イタドリの間の砂利道を長いこと歩いた。

やっと飛び込みとターンができるようになったくらいで水泳大会に出るのは無謀だと、子どもでも思ったけれど、その日は来た。

晴れたいい日で、たくさんの人が応援に来ていた。あの頃町内に小学校は8校はあったのだろうか?太陽小学校は、1000人近く児童がいるマンモス校で、全校児童100名いない僻地校のわたしの小学校とは大違いだった。

控え室になっていた円形体育館は、驚くほど天井が高く、広かった。その裏に、飛び込み台とコースのあるきちんとした25メートルプールがあつて、そこで泳ぐのだ。

どれだけ、どきどきしただろう。わたしは3番目だったと思うけれど、その時にはもう、ずいぶんトップから遅れていた。飛び込みはあまりうまく行かなかった。差を縮める訳でもなく、うんと遅れるわけでもなく、最終泳者にタッチして、わたしの人生最初で最後の水泳大会は終わった。最下位だった。

あの、えへん!と何もかもが立派だった太陽小学校が、あと1年で閉校になるとは、あの時だれも思わなかっただろう。

そして、まだ閉山から5年ほどなのに、閉山は失敗で忌まわしいこと忘れるべきこと、みたいに思っていた18歳のわたしは、弘前大町の燃料店で「◯◯で良質な羽幌炭鉱の石炭、コークス」というホーローの看板を見つけた。あの時、確かに炭鉱はあったのだ、そして青函海峡を越えて石炭はここまでやってきたんだと思うと、何か意味もなく誇らしく、懐かしい友達と一緒にいるような気持ちがした。

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川は茶色いものだと思っていた。それは石炭を洗うからだ。上流からはいろんな物が流れてきた。手紙入り小瓶とか。最悪イチジク浣腸の空き容器も。

12歳までは、炭鉱がある町に育ったのだ。

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太陽小学校。ぴかぴかの時の、写真があればな。きれいで、大きかった。

 

 

 

みつけた。

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太陽小学校のプール開き(昭和39年8月16日付「広報はぼろ」より)|鈴木商店写真館|鈴木商店記念館

まさに水泳大会はこうだった。まだ、円形体育館はここには見えない。