遠くに行きたい気持ちがまだあるのだろうか?

 この間友だちを送って駅あたりまで行くと、ちょうど大阪行きの夜行バスが信号で止まっていた。

ああ大阪まで行くのだ、もう、乗るだけで大阪まで行ってしまうのだと思った。それは、学生時代、青森駅で急行八甲田を見た時の気持ちを思い出させるものだし、イタリアで、デュッセルドルフだったろうかシュトゥットガルトだったろうか、とにかく、遠くドイツのどこかまで行く列車に乗った時に感じたものと似ている。

 大昔大学生だった頃、好きな人は東京にいた。今思ってもせつなく呆れるほど好きで、とても会いかったけど、相手の気持ちは今でもわからない。

ある日の夏、学校で偶然友だちのやっちゃんに会うと、これから車で浦和に帰るというので、どうしても東京へ行きたくて、そのまま乗せてもらって出かけたことがある。本当に着の身着のままで、しかも助手席でぐーぐー寝てしまったので、さすがにやっちゃんを機嫌悪くさせて、早朝5時の始発前に南浦和の駅にいたけど、何の不足もなかった。嬉しかった。今よりずっと日本は広くて、東京も好きな人も遠かった。

やっちゃんのカーステレオからは、はっぴいえんどが流れていた。春よ来い♪

やっちゃんは一度早稲田をでてたので、だいぶ都会の人で、身長は168センチくらいだったけど、ボクは自分と同じくらいの背の人が好きなの、と言っていた。スーパーマリオみたいだったけど、いつも背の高いキレイな彼女がいた。高校大学の時の彼女がわたしと同じ名前で、みんなでユーコちゃんが立ったり座ったりを繰り返す、やっちゃんが撮った8ミリフィルムを見た時、涙ぐんでいたのを覚えている。

23区の西に住んでいた大好きな人とは1時間かそのくらい会えて、それから親戚の家に行って泊まり、わたしの夏の旅は終わった。

 

旭川のアッコおばちゃんから荷物が届き電話があり、わたしが「今は好きなことは、食べること、料理以外に何もできてない、手作業がしたい」と話したら、「ユーコちゃん、そんなの退職してからだって大丈夫だよ、おばちゃんは今、家のリフォームしてるのさ、コメリでコンパネとか石膏ボード買ってね、断熱材入れ直して、それで腱鞘炎になってさ、あはは!」と言われた。76歳なはずだけど、タフな人はちがう。この人系の血を半分しか受けてない。後の半分は、アッコおばちゃんと同じ歳だけど70歳で自殺しちゃった母さんの妹のささやくような声をしてたミネコおばちゃん系のだ。

  アッコおばちゃんの言うように、時間を編むような手作業をする日はくるのだろうか。f:id:youcon:20191027233102j:image
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友だちに誘われたワークショップで編んだキノコたち。もう2年前になるのか。

 

 

まだまだ人生はわからないということが、分かっているようでわかってなかった。

 驚いている。今運転をしていることに、驚いている。人生はわからない。2011年、免許を取り直したあの時には、明日からでも運転する気だったけど、横浜中区でのチャリ生活も5年が過ぎて、もう一生運転しないのだろうと思っていた。

1回目の自動車学校は、大学卒業間際で、仮免を取ったあと、いっぱくちゃんの宮城ナンバーのジェミニを運転させてもらって、ちょっとだけ雪道に突っ込んだ。いとしのエリーが流れてて、いっぱくちゃんが「この歌すきなんだー」と言っていたのを覚えてる。練習させてくれてありがとう。習志野ナンバーの赤いチェリーに乗っていたサクライさんの方がなんか、好きだったけど。

その頃免許を取るのに、最初に払ったお金は12万くらいだったと思う。田舎道を3回くらい運転し、その後運転することはなかった。

2回目は30万くらいかな。免許取得後、完全に身分証になっていた。

ただ、免許を取り直したのは、親が「女の子はどこにお嫁にいくかわからないから」と言って取らせてくれたのに、失くしてしまったのを取り戻したかったためもある。

いろいろな曰くがあるけど、40年近く経って、やっと初心者運転者だ。

もちろんペーパードライバー講習で、レンタカーを含めて10万ほどかかった。

コスパ悪い。

2018年11月末から3月末までの4か月、仕事しながら、12日間の、吐き気がする辛い研修に通って、出席すれば誰でももらえる資格をもらった。

2月にまさかの転職の話があり、悩んだ末に地元に戻ってくることになった5月。

仕事じゃ1週間に3回でも、決まったとこにしか運転しなくても、

すごいよ、自分、運転してるよ。と、思う。

タイムズカーシェアのハスラーも、次は10回目だ。

早く上手になりたい、と思う。

それから、安全運転装置をすべての車へ、とも思う。パソコンができる!という言葉があったあの時代から、誰でもスマホを駆使している時代になったように。

あれ、なんだかむやみに熱くなった。

とにかく、人生はわからない。歳をとって、これから病気とかケガとか、そんなことが思いがけず起こる、そんな「わからない」は起きると思っていたけど、それだけでなく。f:id:youcon:20190829220839j:image

6月、ちゃんと止められて嬉しかったので撮った写真

 

葉山に空と江の島と富士山と伊豆半島を見に行く。

10月30日火曜日。午後から休みにしていたのを、昼ご飯を食べてから気づいた。

さて。

どうしよう。

桜木町で映画を観るか。プーさんが2時からかぁ。

でもこんなに晴れてあったかい日は今年最後かもしれない。

港の見える丘に行って、たぶん咲いてるバラの花を見る。

今それだべか?こないだその辺を通りながら、しかし戦後の日本の道路ってば、全く景観は無視だよなーって思った。

横浜港の上は道ばかり。あれが好きな人もいると思うけど、海じゃあないもの。

 

そうだ、海を見に行こう

 

1.鎌倉山のテラスで遠くに海を見る。意外に、遠くに見える海はいいものだ。好きだ。(ルミリュウだね)

2.小坪のロンハーマンのテラスで間近に海を見る。チャリで何とかいける。

3.葉山まで行く。チャヤで内海を見ながら夕方までまったりする。ケーキセットだべかねー。

4.葉山のもっと遠くまで行く。去年、イベント貸切で入れなかった海辺の店に、行く(CABANていうのか)

 

どうすべーどうすべーと、根岸線で往生際悪く悩みながら、終点大船が近づいてきてあせる。

鎌倉山からの海は、今でもなくても良いのでは?今日はもっと海感欲しい。

だけど小坪だと、港だし、クルーザーだのヨット見たいか?なんか違う。

そだ、やっぱ葉山だ。チャヤもいいけど、一階テラスだと、岸壁感ていうか、コンクリ感あるしなー。

葉山らしい葉山へ行こう。秋の、こんな日には、富士山が見えるかもしれない。葉山から江ノ島と富士山を見るんだ。あーなんていいんだろーCABANに行こう!

バスを降りて、あわび最中の永楽家の手前を海に進む。ここだったよ。

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はあぁぁぁ。来て良かった。

晴れてて、風が吹いてる。海がまぶしい。

CABANは、建物のようで屋外だ。

一番海ぎわには、カウンターの向こうに海が見えるスツールの高い椅子席、背もたれありのソファと背もたれなしのマットスペース。カウンターは空いてたけど、そこに座らず、ソファの後ろのマットスペースへ。

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味が確かな瓶ビールときっと怪しいワインと悩んでワインに。昼ごはん食べたのを悔やむ。

波打ちぎわは見えず、海の向こうに緑の江ノ島

真白き富士の根〜緑の江ノ島の歌を知ってる人は、今どれくらいいるのだろう、娘時代の母さんは、映画を観ていた。江ノ島に一緒に行った時、どんなにか富士山を楽しみにしていたか、どんより曇った参道で、富士山富士山とうわ言のように呟いていたことで、それが痛いほどわかった。

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何より、海の向こうに伊豆半島が長く連なり、山々の形がくっきりと浮かびあがって、その奥に薄くぼんやりした富士山を見つけてうれしかった。

こんな景色を見ると、わたしの中で視点はぎゅいーんと空の高くにあがり、グーグルアースみたいになる。そして日本地図になる。

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伊豆半島はおっきいねー。

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風がカーテンをパタパタやって、時々砂も吹いてくる。空がきれい。空が広い。

そして、そこでやっと、わたしは気づいたのだ。海を見たかった理由を。

広い海を見に行くというのは、広い空を見に行くことなのだ。

ふるさとの北の国の空は広く、青かった。晴れた冬の日の雪原なんかに立つと、地球は丸くて平らで、空は大きな球体ドームなのが、間違いないと思った。

せいせいする。空が広いとせいせいする。贅沢なおまけで、小さくて豊かな緑の江ノ島と、伊豆の山影と、富士山の美しいシルエットがついてきた。

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海に沈む太陽を待たずに、暗くならないうちにバスに乗った。

日本海に沈む夕陽は山ほど見たもんな、と、負け惜しみを心の中でつぶやいて。

めでたい街でブレスレットをほめられる

土曜日、友だちに誘われたので、寿町を撮った古いドキュメンタリー映画を観に行った。

ちょうど2年前まで、コトブキでも3年は仕事をしてたから、あの街のことは、普通の人より知ってる。いや、かなり知っているかもしれん。簡宿(簡易宿泊所)はヤドで、管理人は帳場さんだし、基本的には3畳でトイレと台所は共同、ヤドにはたいていコインシャワーとコインランドリーがある。なんてこと以上に。

コトブキ(寿町と松影町と長者町の一部の簡宿街)の喫煙率とつっかけサンダル率は日本一だと思うし、前歯が無い率もかなり高いと思われる。路上での横臥率もね。

そういえば、よく一緒に仕事をした、10年もコトブキ担当のAさんの名前は寿朗で、コトブキで仕事をするために生まれたようなもんだね!とちゃかしていたが、今は他の区に行ってしまった。

さて、Lプラザに着いて友だちにラインすると、Lプラザがイマイチわからないようで、こりゃ出て目印にならないとなーと思って外に出ると、向こうに友だちがいて、手を振ると気づいたけど、運悪く信号は赤になるところだった。

信号の向こうはコトブキで、初秋のまぶしい光。わたしの隣には、石川町駅前のスーパー青葉でたくさん買い物して、たぶんヤドに帰るおじさん。もしかして同い年くらいかも、のおじさんが急に話しかけてきた。

「その、なんていうの、ブレスレット、映えてるね」あーコトブキの飲み屋のおばはんと間違えてるか?「ありがとうございます。」「あの、足にするのもあるよね、それもすればいいのに」あーアンクレットなんか考えたことなかったー。「買うお金がないんですよ」「そんなことないでしょう〜」

で、やっと青になり、友だちが、むっちゃ笑いながら横断歩道を渡ってきた。「話しかけられてたね〜」

手を振った時の、ちっちゃい一粒ダイヤのブレスレットがおじさんには気になったのだな。

コトブキは男ばかりの街で(最近は女の人も増えだと言っても)、アクセサリーをしてる女の人は飲み屋のおばさんぐらいで、あの、簡宿街と一般地区!(という言い方をわたしたちはする)をへだてる道路のこちら側(まるで此岸のようだがそこも町名は寿町なのだ)で、わたしは、ブレスレットをほめられたのだ。お彼岸に。

それから、1975年のコトブキの映画を観た。モノクロの。うーん。1年住み込んで、とは言うけど、撮っている人はやはり外側から覗いている人だった。

「世の中が豊かになっていけば、寿の住人は減ると思ってたけど、逆に増えているんじゃないか」と言っていた住民の久保さんの言葉が印象的だった。

あと、秋田出身の人の江差追分が上手くて、ソイーソイッと合いの手を入れたくなったとか、追いはぎに遭ったべらべらしゃべるオヤジが、どう考えても父さんとおんなじ話し方だと思ってたら、やっぱり北海道の人だったとか。

しかし、北海道の男は、なんであんなにおしゃべりなんだろう。松山千春大泉洋も杉村大蔵も掟ポルシェも!(順不同)

1975年は40代が何人も死んで行ったコトブキも、今は老人ばかりで、歩行器や車椅子でトロトロ歩いている。コトブキは西成とは違って、住民票をおけるから生活保護を受けられると聞いたことがある。最近は精神障害の、比較的若い人も増えているみたいだ。

昔は今よりずっと危険だったと言う。川の向こうに住んでいる人が、近道でもタクシーは寿を通らなかったと言う。だって、当たり屋がいるから!当たり屋って!ホントにいたのか!って感じだ。

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終わってから、友だちと関内駅前のフレッシュネスで、映画の感想だのコトブキだの、仕事のことなど語り合って別れた。

そうだ、映画の前は、古い友だちのうっちーと中華街の状元樓で、昼から食べて飲んだのだ。11時半過ぎたら、あっと言う間にあの大きな店が満員で驚いたけど、とにかく料理が来るのが早すぎて、残念だった。だって、食べる頃には冷めちゃってるんだもの。食べ物って、温度だ。特に中華はそんな気がする。ていうか、冷めていくあったかいものを見ているのが辛かった。お店の雰囲気は良く、味は、香辛料がいい感じ。

うっちーは来年早々に1ヶ月近くバハマに行くらしい。バハマかー。アメリカ人の新婚旅行の場所だって、ケビン・ベーコンの映画で知った。レックレス・エリックの好きな曲にも出てくる。f:id:youcon:20180925220928j:image

Wreckless Eric - Whole Wide World (single 1977) - YouTube

カリブ海は青いかな?

なんか、濃い一日だった。めでたい名前の街コトブキのおじさんは、なぜわたしに話しかけたのだろう?

 

ブラフベーカリーのキャロットケーキがどうしても食べたかった。

先週後半から、ブラフベーカリーのキャロットケーキが食べたかった。金曜なんかは昼ごはんの代わりに食べてもいいかとさえ思った。

上野町の雑な街並みに、突然品良くたたずむアンダーブラフコーヒー。そこで一番小さいピースを買って、すじむかいくらいにあるセブンイレブンでコーヒー買って、イートインで品なく貪りたかった。

けど、その近くをかすりもしなかった。

月曜も、食べたかった。近くを通ったけど、時間的に無理だった。食べたかった。

わたしのキャロットケーキ欲は今日最高潮に高まっていた。このいけすかない暑さでへろへろになりながら、ショーケースの中で冷え冷えになった、口の中で崩れるキャロットケーキとチーズクリームの舌ざわり、を想像するだけで元気になった。のに、今日もアンダーブラフコーヒーまでは行き着かず、時間もなく、もう諦めようと思った、そこは山手だった。

あー!代官坂を下りたらブラフベーカリーじゃないの!

それにしても、夏の坂道はどうしていつもあんなに暑いんだろう。

キャロットケーキは3ピース残っていて、480円450円420円。もちろん420円の、たぶん端っこのやつ。かどっこが一ヶ所丸い。ただ、ほんとは300円くらいの大きさでいいのだがなー。

そして会社まで帰り、ただただバクバクたべた。この暑さで10分くらい持ちあるけば、すでに冷え冷えじゃなかったけど、ウマーだ。

しかし、なぜこんなにも、あのキャロットケーキが食べたかったのだろう?

ひとつだけわかってるのは、週後半ひどく疲れた気がして早く眠ってしまい、金曜日の夜はさむくて、土曜の朝起きたらツバも飲み込めないくらい喉が痛かったということだ。土日寝て何とか生き返ったけど、まだまだだ。

ブラフベーカリーのキャロットケーキは素朴なケーキだ。クルミの入ってるしっとりしたニンジンケーキの上に、柔らかいクリームチーズがちょうどいい感じで乗っている。素朴だけどどこか都会っぽい。今日のは、おっきいクルミがひとつゴロンと入ってて得した気分だった。

仕事中だからホントは食べちゃいけないはずだけど、誰も止めなかった、それくらい鬼気迫ってたかもだ。f:id:youcon:20180821231645j:image

ブラフベーカリーのサイトにあったキャロットケーキのホール。わたしが買う小さく切ったピースのには上にクルミは乗ってないけど、その見た目もまたいい感じだ。なんか、気取ってないけどおいしいんだよね。

 

北の国は広いが、あの辺が大変なことに。

台風の影響で北の国が大変なことになっている。出てくる地名が、どこも記憶の中で身近だ。

雨竜川が氾濫とか聞くと、雨竜かーと思い、道新(北海道新聞)の付録冊子の表紙にある雨竜沼湿原の写真を見ながら、「ばーちゃん、まだここに行ったことないのさー」としみじみ行きたそうにしていたばあちゃんを思い出す。ばあちゃん、まだ行くかー85で。と思ったのを。

ばあちゃんが置戸町雄勝に移住したのは1歳の時だけど、イントネーションは100パー秋田だった。さすが秋田県開拓団だ。

残念だけど自分と似た、好奇心が強くて、空気が読めなくて自分勝手なとこがある。

今は珍しくないモロッコインゲンを初めて食べさせてくれたのも、ばあちゃんだ。種の冊子を見て勝手に注文し、裏庭に植えて育てていた。「すごくおっきくなるっていうから、どんなんだべと思って、ばーちゃん買ってみたのさ」

確かに、驚いた。もう25年かもっと前だ。ばあちゃん流行りもの好きだなぁ。f:id:youcon:20180705225917j:image

しかし、そんな思い出に浸ってる間に、故郷はとんでもないことになっていた。

ツイッター北海道民クイズで、もち全問正解して、こんなもんだべさ。と思って自分でクイズ作ってる場合じゃなかった。

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今日になっても北の国はあまりに雨なので、電話してみたけど、出ない。携帯にも出ない。

そのうちこんな情報が!

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PLせつな@ドワ on Twitter: "北海道開発局の案内だと留萌~R233~R275~R40~遠別中川線で迂回してくださいって、ダイナミック迂回すぎる…… "

札幌から親に会うまでどんだけかかるんだ!という感じ。

どうしたんだ北の国。

そういえば、田舎の川(アイヌ語で秋の川という意味の)の堤防はしっかりとしていたけど、それは母さんが10歳の頃に川が氾濫して、流れが変わり、母さんの実家の田んぼが川と沼になってしまった後できたということだった。

ばあちゃん一家が明治の末に移住するきっかけも、川の氾濫で土地や家を失った人々が中心だったらしい。

自然にはかなわない。

早く、全国の大雨が収まりますようにだ。

 

子どものころ炭鉱があった②

5月は胸が痛くなるほど忙しかった。 

いや、忙しくて胸が痛くなった。はあ。

そして6月も、なんとか解決しようと思う案件ばかりで、考えて、頭が痛くなっている。

気を休めるのにAmazonプライムで「孤独のグルメ」を流し見するくらいだった。

2度目のグレーテスト・ショーマンは、5月下旬、最終日に観たけど。

 

さて、炭鉱のことだ。

たとえば妹や弟にはかすかな記憶でしかないけど、わたしにとっても、父さんや母さんにとっても、閉山には大きな喪失感がある。羽幌炭礦鐵道の線路がなくなってしばらくたっても、父さんは、なくなった踏切でつい車を一旦停止してしまったものだ。

 

4月に母さんと電話で話した時、「太陽小学校の体育館の屋根が雪で落ちちゃったんだよ」と聞いた。

太陽小学校は、炭鉱にあった大きな小学校で、当時珍しい円形体育館があったのだ。

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そうだ、あの、円形体育館のまだぴかぴかの時を覚えている。だって6年生の時、太陽小学校で町内小学校水泳大会があったのだ。

海の町に育ったけど、海水浴場までちょっと距離があり、泳げる時期は7月下旬から8月中旬で、海はすぐに足が立たないくらい深くなる。そして、運が悪いと、焚き火をしなければならないくらい寒かった。水温が21度あれば水泳可、と言われたけれど、少し行くと足元の水は驚くほど冷たく、なかなか泳げるようにはならなかった。 浮き輪につかまってパシャパシャがせいぜいだった。

小学校5年になって、担任の渋谷先生が、二泊三日で近くの遠浅な鬼鹿の海に臨海学校に連れていってくれて、やっと泳げるようになった。泳ぐのはとても楽しかった。

そして6年生になると、渋谷先生は、今年は町内小学校水泳大会に出る、と言ったのだ。女子11人のうち4人がリレーに出ることになって、わたしたちは遊びと練習を兼ねて、バスに乗り、氷切り場だったという望潮山の上のプールまで毎日のように通った。暑い日差しの下、イタドリの間の砂利道を長いこと歩いた。

やっと飛び込みとターンができるようになったくらいで水泳大会に出るのは無謀だと、子どもでも思ったけれど、その日は来た。

晴れたいい日で、たくさんの人が応援に来ていた。あの頃町内に小学校は8校はあったのだろうか?太陽小学校は、1000人近く児童がいるマンモス校で、全校児童100名いない僻地校のわたしの小学校とは大違いだった。

控え室になっていた円形体育館は、驚くほど天井が高く、広かった。その裏に、飛び込み台とコースのあるきちんとした25メートルプールがあつて、そこで泳ぐのだ。

どれだけ、どきどきしただろう。わたしは3番目だったと思うけれど、その時にはもう、ずいぶんトップから遅れていた。飛び込みはあまりうまく行かなかった。差を縮める訳でもなく、うんと遅れるわけでもなく、最終泳者にタッチして、わたしの人生最初で最後の水泳大会は終わった。最下位だった。

あの、えへん!と何もかもが立派だった太陽小学校が、あと1年で閉校になるとは、あの時だれも思わなかっただろう。

そして、まだ閉山から5年ほどなのに、閉山は失敗で忌まわしいこと忘れるべきこと、みたいに思っていた18歳のわたしは、弘前大町の燃料店で「◯◯で良質な羽幌炭鉱の石炭、コークス」というホーローの看板を見つけた。あの時、確かに炭鉱はあったのだ、そして青函海峡を越えて石炭はここまでやってきたんだと思うと、何か意味もなく誇らしく、懐かしい友達と一緒にいるような気持ちがした。

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川は茶色いものだと思っていた。それは石炭を洗うからだ。上流からはいろんな物が流れてきた。手紙入り小瓶とか。最悪イチジク浣腸の空き容器も。

12歳までは、炭鉱がある町に育ったのだ。

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太陽小学校。ぴかぴかの時の、写真があればな。きれいで、大きかった。

 

 

 

みつけた。

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太陽小学校のプール開き(昭和39年8月16日付「広報はぼろ」より)|鈴木商店写真館|鈴木商店記念館

まさに水泳大会はこうだった。まだ、円形体育館はここには見えない。