本牧で死んだ子はカモメになったよ〜
今日、ひさびさに本牧方面を走った(チャリだけど)。本牧2丁目のバス停の手前で、赤いテントにGolden Cupの看板!そーだ、ここがゴールデンカップだったー!と一瞬のうちに通り過ぎたけど、その後。
頭の中で、流れる。ずっと流れ続ける。
長い〜髪の〜しょおおじょ こどく〜な瞳 後ろすがたぁ悲しぃい〜恋の〜終わり〜 どぉぞぉー君だけ〜に こころを受け止めて〜辛いぃ恋だか〜ら 愛の物語〜 長い〜髪の〜しょおおじょ〜ららららららら
はーこれだ。歌詞はでたらめかもしれないけど、ゴールデンカップスの「長い髪の少女」だ。お店の名前からグループ名つけたんだ。しかし、まさか本牧をチャリで走る日が来るとはなー。小学生の自分に知らせてあげたい。ゴールデンカップス、あんまり興味なかったけど。
横浜関内が勤務先になって5年。本牧生まれ育ちの同僚が伝え聞いた昔の本牧を話していたけど、何せそこそこ若いから、ゴールデンカップもゴールデン…??そうそうカップ、て感じ。
本牧といえばあれだよね?
本牧で死んだ子はカモメになった〜よ
だよね。
と、言ったら、場がさーっと引いた。そーだよね、死んだなんて歌変だよね。あわてて同世代に振ったら、「知らない。わたし田舎生まれだから」と言われたけど、わたしがどんだけ田舎生まれだか知ってるのか、知らないだろうだ。
伊勢佐木町を通りすぎることもある。
あなた知ってる〜港横浜〜 街のあたりに〜潮風吹けば〜 花散る夜を惜しむよに
伊勢佐木あたりに灯りがともる〜
これも歌詞間違えてるかもしれないけど、頭に流れる。ゆずは伊勢佐木にいたらしいけど、流れない。
そのかわり磯子関係の電話がきて「岡村の◯◯ですが」と言われると、シャカシャカタンバリンで「夏色」
この長い長い下り坂を君を自転車の後ろに乗せて〜
となる。
「ブルーライトヨコハマ」と「よこはまたそがれ」は、流れない。
なぜだろう?
わかった。だってアバウトに横浜で、特徴ないもんね。
桜木町あたりだと、人混みの中で
いつでもさがしているよーどこかに君の姿を 明け方の街桜木町でー
そうだ、いつだって、大昔のご当地ソングは、もれなく頭に流れることになっている。
小学校の頃、ウチのHONDA1300クーペのカーステレオのカセットは本数が少なくて、しかも演歌とインストゥルメンタル。特に「峠の幌馬車」を代表とするインストゥルメンタルカセットは、ひどく退屈だった。
興味ない演歌の中で、北島三郎の「女シリーズ」だけは好きだった。函館から始まって鹿児島まで、流しっぱなしにすると、オムニバスのようだった。
だから、大人になって金沢に初めて行った時、「香林坊」の地名を見たとたん
君と出会った香林坊の 酒場に赤い灯がともる あーあーあぁ金沢は金沢はー
頭に流れた。そーかー金沢に来たんだーと思った。
さて、本牧で死んだ子はカモメになったよ、だ。
ぐぐる先生に尋ねたら、ちゃんと「本牧メルヘン」とわかった。阿久悠作詞井上忠夫作曲か〜井上忠夫、ブルーコメッツのフルートだったよね〜。
本牧はもっと港町だと思っていた。洋風だとも思っていた。いや、海は遠くはないけど。何というか、米軍基地がなくなり、バスしか交通機関がない本牧は、駅から遠い、寂れたただの住宅街のようだ。
まるで昔ばかりを思い出す、自分のようだ。
でもないか。
Why Does It Always Rain On Me?
トラヴィスが歌っている。なぜ自分にはいつも雨が降るんだろう?17歳の時に嘘をついたから?
わたしが生まれた時、それまで寒かったのに急に暖気になって、ざんざん降りで根雪も溶けてしまったけど、その後ひどい雨返しが来た。そう言われるにはきっと、その後の天変地異事件?の数々が影響しているはずだ。そう言えば生まれた時だって、と。なんか訳があると思うのが人だよね。
中学も高校も修学旅行は雨だった。特に、高校の時、京都は10月だっていうのに夕立ちみたいな急な雨で、ずぶ濡れで、制服のスカートのひだがべろんべろんになった。女子はこぞってクリーニング屋さんにアイロンがけを頼んだはずだ。
でも、そんな雨はたいしたことじゃない。あの雪にはかなわない。
高校2年だったと思うけど、真冬、遊びに行った旭川から急行に乗って帰る途中の大雪。もしかしてあの汽車自体「急行大雪」だったかもしれない。そして、深川までは順調だったような気がしないでもない。深川駅で札幌から来る急行はぼろに連結されて、確かに吹雪いていたけど、ちゃんとホームに降りてウロコダンゴを買う余裕もあった。
ウロコダンゴは別として、子どもの頃からあの辺、深川、石狩沼田、幌糠あたりの1時間が苦手だった、というか景色が退屈だった。まだ自分のとこの方がマシだと、悪いけどいつもそう思っていた。そして、あの日そこを越えるのに、5時間はかかった。留萌に着いたのは夜中12時くらいで、当時は窓の下に灰皿が設置してあるくらいだったから、息苦しい煙草の煙だった。
普通は、留萌までくればあと1時間だけど、もちろん朝までたっぷり8時間かかった。汽車を降りると、午前8時の青空がまぶしかった。3時間の距離を14時間かかった。
でも、そんなことは誰にでも起こることだし(そうか?)、まあ仕方ないとも思っていた。次は何だ?
大学の夏休み、いつもは青函連絡船を降りると函館発朝4時50分頃に発車する特急「北海」か「おおぞら」のどちらかに乗るのに、その時は何を考えたのか、急行「すずらん」に乗ろうと思った。すずらんは函館発7時半頃発だったと思う。そして、長万部駅で「かにめし」ではなく「そば弁当」を買って食べ、やっぱ森の「イカめし」にすれば良かった〜と思ってる時にそれは起こった。
有珠山噴火。
外の景色に、雪ではないけど横なぐりの細かい何かが舞い始めた。そのうち何かはどんどん多くなり、外が真っ暗になって、電灯もついた。ざわつく車内。
今みたいにネットがあるわけじゃないから、乗客はざわついているだけで、そもそも肝心の国鉄だって情弱だった。最初の車内アナウンスは「昭和新山が噴火した模様です」そしてしばらくしてから「失礼しました。有珠山が噴火した模様です」と訂正された。
昼なのに暗い窓の外は廃墟のようで不気味だったけど、すずらんは進み続け、そのうち景色は徐々に透明度を増し、無事に札幌に着いた。
その次の年だったろうか、たまたま千歳から青森空港行きの飛行機があるのを知った。じゃあそれで弘前まで戻ろう、と思ったら、青森空港の上空は悪天候で、長いこと旋回したあげくに函館空港に逆戻り。出張のおじさんたちと一緒に青函連絡船に乗り換え、3時間50分かかって青森駅へ着いた。当時札幌から千歳空港はバスで70分かかったし青森上空も長かったし、函館空港から函館駅はバスだし、青函連絡船の乗り継ぎも悪いし、結局札幌駅からいつものように鉄道と連絡船で帰ると同じだけかかり、突然の移動移動対応でぐったりした。
関東に住んで、年に一度か二度しか飛行機に乗らなくなっても、吹雪の千歳空港で朝から晩まで待ったとか、羽田空港で夜明かししたとか、ある。もちろん、まあ他にもいろいろある。
雨女なのか?天変地異女なのか?
東日本大震災は歯医者の帰りで、鶴見新子安間の電車の中だった。普段は自転車通勤で、電車に乗ることなんてほとんどなかったのに。
ただ、元々電車は揺れるものなので、揺れはそれほど感じなく、そんなに大きな地震が起きていたとは思わなかった。JRも間違った。「東京で大きな地震が発生しました」
急停止しても、たぶん10分もしたら動くのだろうと思っていたけれどずっと止まったままで、ガラケーで調べたら宮城県の栗原市が震度7とあったので、 震度7!?と思ったのを覚えている。
1時間以上止まっていただろうか。踏切近くの最後尾ドアだけが開き、そこから降りるように言われた。それからは各自好きに歩くしかなく、わたしは横浜を目指し、途中のコンビニのやっと3軒目で携帯のバッテリーが買え、ちょうど日没頃に横浜駅に着き、駅やバスターミナルを長いことさまよったあげく帰宅難民になり、駅のモニターで気仙沼かどっかのヘリからの火事映像を見ておののき、午後9時に日産本社のショールーム上の渡り廊下にたどりつき、夜を明かした。あの時の日産の方々の親切には、感謝しかない。
それから、もう7年経った。電車通勤になって5年。雨風雪人身事故で、電車が遅れるのはしょっちゅうだけど、ほんとに大変だったのは、1度くらい。雪。あと8分で着く乗り換え駅で、来る来ると言われて極寒の夜7時のホームで1時間待ったあげく、振替輸送で乗り換え乗り換えで1時間かかって帰った、8分を2時間。もういい歳なので、大きな事件はかんべんしてほしい。雨女ではない。と、思う。軽井沢駅のホームは端っこも見えない霧だったしな。
「おいらはドラマー、ヤクザなドラマー、おいらが怒れば嵐を呼ぶぜ♩」(1957年12月)
石原裕次郎ファンの中2の明子おばちゃんがわたしの名前をつけた。
嵐を呼ぶ女、と呼んでほしい。
福田次官、お言葉ですが。
同世代として、あまりにも恥ずかしい。
「女性が接客をしているお店に行き、お店の女性と言葉遊びを楽しむようなことはある」
ほう。言葉遊び。ぜんぜん遊んでないし。と、思ってぐぐる先生を覗いたら
「言葉遊び(ことばあそび)は、言葉の持つ音の響きやリズムを楽しんだり、同音異義語を連想する面白さや可笑しさを楽しむ遊びである。」とあった。
やっぱり。
しかし小学生レベルだよね、と友だちに言ったら、男子二人の母は、「小学でも3年になったら言わない、小2までレベル。おっぱいさわらせてなんて久々聞いたよ」だってさ。
そして、だよ。
「言葉遊びのところは結構ご批判を受けた。なるほど今の時代はそういう感じなのかと」
こうくるかー。
同世代としてあまりにむかついて、吐き気がした。「昔はそれで良かった」と思っていることが恥ずかしい。1982年のスナックの女の子だって、この発言の下品さとレベルの低さに呆れただろうよ。おっぱいを触らせてくれたかどうかは別としてね。
そう、あの頃はまだ男女雇用機会均等法(1986年)前だったからね、商社だって銀行だって広告代理店だって、いい会社はいいとこの短大卒を取り、4大卒の同級生はかなりの割合で公務員とか学校の先生になった。
もちろん、一般企業に入った子もいたけど、驚いたのは、英文科の自宅通学の子が、ミスなんとかになりJALのスチュワーデス(キャビンアテンダント)にも合格したけど、釣書の箔つけのためだったこと。もちろんスッチーにもならず、しばらくしてから、地元出身の東大卒高級官僚とお見合いして結婚したという噂を聞いた。
あー東大卒高級官僚ー。話が繋がった。
友だちと、福田さまへの質問ごっこで盛り上がった。
「福田さま、奥様とは言葉遊びはされませんの?」などなど。
あー思い出した。
15年くらい前、お運びさんのバイトをしていた時に客で来た、テレビに出ていた某大学の教授がすげー嫌なセクハラオヤジだった。
和室での二人会席(接待?)は、50代後半のきれいな和服の人が配膳していて、その後方支援だったのだけど、会食相手との会話の途中で教授は突然、
「上がった(閉経した)女は女じゃない!だから、家内にも、お前は女じゃないといつも言ってるんだ」
たぶんわざと、そのきれいなおばさんが目の前にいる時に、大きな声で言った。
あの時の、おばさんの能面のような顔を覚えている。おいおい、わたしだってすぐそこだよ。あんたに女とも思われたくもないけどな。
最低の男だと思った。
あれは、「こんな中途半端に品がいいお店じゃなく、若いおねーちゃんいるとこに行きたい!」と接待の人に言いたかったのかな。
1999年4月1日、東京の桜は満開だった。
夜9時を過ぎて中野ZEROを出ると、駅までの道は、顔に届きそうなところに満ち満ちた夜桜で、あの時なぜだろう、久しぶりに桜らしい桜を見たような気持ちになった。
通りの居酒屋で軽く食事して電車に乗ると、もう10時頃で、東京から乗り換えると、日曜遅くの下り電車は人も少なく、もの悲しかったのを覚えている。家に着くと、11時を過ぎていた。
次の日の朝は母さんからの電話で目が覚めた。「じいさん、昨日の夜になくたったのさ。」
じいちゃんは、暮れの頃から少し体調を崩していた。だから、ほんとうに、お正月には会いに帰りたかったのだけれど、帰れなかった。春になったら会いに行くから、と伝えてあったけれど、もうその春になっていたと思うと、心は後悔でいっぱいになってしまった。
その日じいちゃんは、午後のおやつに大好きなプリンを食べ、それから、トイレには行かずに、まだ少し雪が残っている表に出て(広い空と広い平原を見ながら)立ち小便をし、少し横になると言ってベッドに入った。4時頃だった。
7時になっても起きて来ないので、ばあちゃんが見に行くと、食べたプリンを戻して布団を汚していたので、気の強いばあちゃんは怒ってとっさにほっぺたを叩いたという。そして、普通でないことに気づくのだ。
それから4時間とちょっと、じいちゃんは生きていた。亡くなったのは、ちょうどわたしがさびしい家に着いた頃だ。中野ZEROにいた頃に意識を無くし、きっと、それからわたしが家に着くまで、そばにいて見守ってくれたのだ。だって、じいちゃんは、わたしのことを誰よりも可愛がってくれたんだもの。
じいちゃんは、ほんとうにわたしを甘やかしたし、可愛がってくれた。もちろん、仕事でいないこともあったけど、4、5歳まで、わたしの定位置はじいちゃんのあぐらの中で、朝ごはんはそこで卵かけごはんだった。毎日毎日食べ続け、今でも美味しかったことは覚えているけど、ある日生卵はもう二度と食べなくて良くなった。
幼稚園に行く歳になった時、絵本が好きだったわたしにじいちゃんは言った。「幼稚園に行かなくてじいちゃんと一緒にいたら、毎月、幼稚園(雑誌)を買ってやるぞ」それで、幼稚園に行かなかった。
そもそもうちはよそ者で、家は大家族でおじさんおばさんも多かったけれど、同い年くらいの子どもとは、母さんの親戚3兄妹をのぞいてあまりつきあいがなかったし、自分も幼稚園という外の世界がこわかったのだろうと思う。
幼稚園に行かないかわりに、じいちゃんはカルタで遊んで字やその意味を教えてくれた。そのうち読み札で読み札を取るようになり、小学校に入ったら、誰よりも字が読めた。
夜は小学2年生まで一緒に寝た。学校で、「この中でまだお父さんお母さんお祖父さんお祖母さんと一緒に寝ている人はいませんよね?」と先生が言って、みんなが笑ったのでやめたようなものだ。
じいちゃんはお酒を一滴も飲めないので、お菓子好きな子どもの気持ちはよくわかっていた。大家族だったからもあるけど、チョコレートはよく箱で買ってきた。
書き始めればきりがない。買ってくれるみたいなこと以上の、あれもこれも、いくらでもあるのに驚く。8歳上のおじちゃんが、お前が生まれてオヤジが怒らなくなった、孫を叱らないないのに子どもを怒鳴るのは違うと思ったんだろう、それまでは死ぬほど怖かったと言った。
でも、わかっていることがある。わたしが生まれる20日前に、じいちゃんは、まだ小学校5年生の娘を突然亡くしたのだ。肺炎で入院して、あっという間に。おじちゃんを怒らなくなったのは、わたしが生まれたからではなく、自分の子どもを亡くしたからだと思う。そして、小さい女の子を亡くしてすぐに現れた女の子は、誰だって生れ変りだって思うよな、と。
さて、お通夜だ。遠い北の町のお寺に着いたのは暗くなってからだった。弟が手招きするので、一緒に祭壇の裏に回ると、そこには木のお棺があって、蓋をあけるとじいちゃんがいた。
あーじいちゃん、生きてるうちに会いたかったよ。
思わずほっぺたを触ると、じいちゃんは驚くほど冷たく、カチカチに硬かった。だけどほんとうに、じいちゃんに会えて、よかった。
火葬場へのマイクロバスは春の青空の下のまぶしいアイスバーンの中を行き、わたしは、じいちゃんの入ったお棺がドアの奥に入って行くとき、化けて出てきて!と叫んだ。でも、一度も出てきたことはない。霊感は全くない。
その晩から雪になり、朝起きると、景色は冬に戻っていた。一晩で30センチは積もったと思う。いつ、どれだけ泣いたか覚えてない。たぶんずっと泣いていたんだと思う。まぶたがぱんぱんに腫れた。
じいちゃんは、とびきり足が速かった。50代でも充分速かった。そして気が弱かった。若い頃山子をやっていた時、みんなが野犬を煮て食べたのを、見ることもできなかった。高等小学校しか出てないけど字が上手かった。時代劇と時代小説が好きだった。
背が高くて、かっこよかった。
そうなのだ。実は、悪いところだってあることを今はわかっている。でも、大好きな人から、自分というだけで無条件で愛された記憶ほど、生きていく糧になるものはなかった、と思う。
その後10年は、何回じいちゃんを思い出して泣いたかわからない。だけど今は、どんなに思い出すことはあっても、もう泣くことはない。
4月1日を毎年毎年忘れることはない。満開の桜と一面の雪景色をほぼ同じ時に見せてくれた。
50代後半のじいちゃん?
3月10日は陸軍記念日
3月10日は、母さんの誕生日だ。83歳になった。
「本当の誕生日は2月なんだってさ。わかりやすく陸軍記念日にしたみたいだけど、今は誰もわかんないよね。」と言っていたので、今回は、「本当は何日なの?」と聞いたら、「2月21日」と即答された。前に聞いた時は、もっとあいまいだったような気がするけど、まあいいや。
「陸軍記念日だけど、東京大空襲の日だものね。だけど、大震災と一日違って良かったと思ってるよ。」そうなのだ。
だいたいにして、出生届のタイミングもそうだけど、母さんの父親は子どものネーミングもかなり変わっている。母さんは長女らしい普通の名前だけど、すぐ下の妹はギヨ子!天皇が行幸した年だか月だかに生まれたから。そして待望の長男は精良。せいりょうおじちゃん、と何の不思議もなく呼んでたけど、熟語の「すぐれて良いこと」の意味ではないと思う。
そのギヨ子おばちゃんも、精良おじちゃんも、もうとっくに死んでしまった。65歳と70歳くらいだったと思う。母さんは8人きょうだいの長女だけど、妹やら弟が先に死んでしまい、残っているのは4人になった。
どんなときでも、母さんは穏やかでユーモアに溢れていて、自分は不安でいっぱいでも人を安心させる才能を持っている。初めて遠くの町に受験に行く時、忘れ物王者のわたしに母さんは言った。「なんも、お金と受験票さえ持っていれば大丈夫だから。」その言葉でどれだけ安心しただろう。まあ、でも下見の時に旅館にお金忘れて大変なことになったんだけど、それはそれだ。
合格した時も、母さんは一緒についてきてくれて、旅館を決めて泊まり、下宿探しをしてくれた。当たり前のように思うけど、その時初めて母さんは北海道を出たのだ。隣の家から嫁いできて、一人で旅行なんかもちろんなかった。
何でこんなこと思うかというと、子どもの頃水害で土地が川になった怖い記憶があるとか、10代の頃近くの集落で強盗殺人放火事件があってそれからは暗くなるとカーテンは開けられないとか、普段そんなことはみじんも感じさせない人が、本当に取り乱していると感じたことがあったからだ。
それは、母さんの14歳下の妹が死んだ時だった。電話を取ると「ユーコ、りっつが死んじゃった」声が硬くて、その後がなかなか続かなかった。あれは、知らせる電話ではなかったと思う。不安を分かち合う電話だ。
律子おばちゃんとその下の末っ子のおばちゃんは、いつもわたしと遊んでくれた。猫と一緒に。橋幸夫と舟木一夫で二人がもめて、あんたはどっちが好き?と詰め寄られたこともある。二人と友だち何人かが、じゃんけんで替わりばんこにわたしをおぶって歩いてくれた遠い記憶もある。今思うと、足手まといな幼児だったのかもしれない。
律子おばちゃんは、いろいろあって若い頃に故郷を後にしたけれど、その後は、ずっと平穏に暮らしているはずだった。なのに、突然、6階の自分の家から飛び降りて死んでしまったのだ。52歳だった。猫に餌をやってあった。
その半年か1年前にギヨ子おばちゃんが胃がんで亡くなっていて、かわいがっていたから呼ばれちゃったんだね、という話をみんながしてた。
そうだ、母さんだ。母さんに誕生日の電話をしたら、母さんは両親の話をし始めた。父親は58歳、母親は62歳で亡くなったけれど、「その時は自分も若かったから、もう年だからって思ったけど、今思うともっと生きたかっただろうねぇ」
母さんの親戚は、ほんとうに短命が多い。だから、毎年毎年生きていることを感謝しているのが、「両親91歳と95歳まで生きたから、オレはまあ90迄は生きるつもりだ!」と意味なく豪語している父さんとは違うとこだ。
わたしはなにかと父さん似で残念だ。
父さんと母さん2016年余市
2013年Facebookで、神父様について同じことを書いてる。
さて、ここ何年もFacebookを使わなくなった理由はいろいろあるけど、ある犯罪者のFacebook繋がりが社会的地位のある人ばかりで、虚栄心に溢れてる、みたいな記事を見たこともある。自分には何も自慢できることはないからね。
マンフレッド・フリードリッヒ神父に捧ぐ。
映画の中の人では、青い目・金髪が断然好きだ。顔は薄情そうなのがいい。女子も男子も。そんなわたしに、ロンドンオリンピックの開会式でダニー・ボイル監督は、どう?って感じでこの人を差し出した。女王陛下のエスコート。きゃーーまいりましたー。それで、うんとちっちゃい頃から全く観たことがなかった007シリーズを3本、その他1本、この碧眼金髪のおじさん映画を観ることになった。慰めの報酬は目があおーい、とかボンドガールめんこーとか思いつつなんとか見終わった。(スカイフォールはもっとよかった) さて、どうして、金髪碧眼が好きなんだろう?(でも赤毛そばかすも好きだけど)...思いついたのは原体験で、わたしが中学2年の時、初めて会った外国人が、金髪で青い目のドイツ人神父だったということだ。まだ29歳とかで、中学2年生が見ても無駄か?と思われるような漢字の練習を熱心にしていた。どんな顔かは忘れても、あの青い目と、日本人には絶対ない澄んだクリーム色の歯は忘れない。ミサの雰囲気にはクラクラしたけど、わたしはどうしても、八百万の神を、蕗の葉っぱの下の神様を信じる人だった。もう会うことはなかった。VUの曲にPale blue eyesがあって、やっぱどんなとこでも青い目っていうのは特別なんだって思う。考えてみると、マンフレッド神父のようなあんなに青い目を、近くで見たのは、それ以降もなかった。目の色はけっこう大切で、わたしはなんてことがない職場の後輩の目が茶色かったので、いつも目を見てしまったものだ。
フリック入力までの長い道のり
割と機械モノが好きだ。ある意味、魔法だもんね。
なので、ワープロとゆーものができた時は、まだ買えもしないのに、お試しで触ってみたりした。1980年頃は、液晶表示される文章は2行くらい。キャノンだったかな。
その後、ワープロ富士通オアシスがウチに来た。親指シフトが画期的というので、覚えた。覚えたけれど、ワープロじゃなくパソコンじゃね?の時代がきて、当然パソコンは親指シフトではなかった。英字入力覚える。マックだったので、マウスはワンクリック。
が、ウィンドウズで仕事しなければならなくなり、右左クリックに。何でパソコンの中にコンピュータがあるのかわけわからん。と、思ったけど素直に従う。
そのうちケータイメールの時代きたー。右より左手が打ちやすく、親指でかかかか、と打つ。
けっこーはやくなったーと思ってしばらく経つと、次だ。iPhone欲しくなる。iPhone自体はやっぱマックと似てる。長押しがデフォだもんね。が、問題は入力。液晶は、反応が全然違う(T_T)。かかかと入力スムーズにできない。イライラ。英字入力試すけれど、電車でたまに見かけるむっちゃ早く両手動かしている人を見ておののき、泣きながらフリック入力の道を歩むことになった。もう5年かー。
と、いうことで、右手中指でフリック入力しています。左手親指ですばやく入力したかったけど、あきらめた。左手だとひどく遅い。悲しいくらい遅い。
しかし、ソファに寝転んで、右手中指で文章を書く日がくるとはなぁ。
ユキちゃん(妹)なんて、和文タイプの資格持ってるらしいけど、それってどんなもんか、もう全く想像もつかないよね。
そいえぱポケベルの時代、画面を見た女子高生が、公衆電話に走ってなんか電話ボタン早押ししてて、すごいなーと思ったけど、あれも無駄な技術になったな。
ほんとに、ディランも歌ってるけど、時代は変わる、だ。