1999年4月1日、東京の桜は満開だった。
夜9時を過ぎて中野ZEROを出ると、駅までの道は、顔に届きそうなところに満ち満ちた夜桜で、あの時なぜだろう、久しぶりに桜らしい桜を見たような気持ちになった。
通りの居酒屋で軽く食事して電車に乗ると、もう10時頃で、東京から乗り換えると、日曜遅くの下り電車は人も少なく、もの悲しかったのを覚えている。家に着くと、11時を過ぎていた。
次の日の朝は母さんからの電話で目が覚めた。「じいさん、昨日の夜になくたったのさ。」
じいちゃんは、暮れの頃から少し体調を崩していた。だから、ほんとうに、お正月には会いに帰りたかったのだけれど、帰れなかった。春になったら会いに行くから、と伝えてあったけれど、もうその春になっていたと思うと、心は後悔でいっぱいになってしまった。
その日じいちゃんは、午後のおやつに大好きなプリンを食べ、それから、トイレには行かずに、まだ少し雪が残っている表に出て(広い空と広い平原を見ながら)立ち小便をし、少し横になると言ってベッドに入った。4時頃だった。
7時になっても起きて来ないので、ばあちゃんが見に行くと、食べたプリンを戻して布団を汚していたので、気の強いばあちゃんは怒ってとっさにほっぺたを叩いたという。そして、普通でないことに気づくのだ。
それから4時間とちょっと、じいちゃんは生きていた。亡くなったのは、ちょうどわたしがさびしい家に着いた頃だ。中野ZEROにいた頃に意識を無くし、きっと、それからわたしが家に着くまで、そばにいて見守ってくれたのだ。だって、じいちゃんは、わたしのことを誰よりも可愛がってくれたんだもの。
じいちゃんは、ほんとうにわたしを甘やかしたし、可愛がってくれた。もちろん、仕事でいないこともあったけど、4、5歳まで、わたしの定位置はじいちゃんのあぐらの中で、朝ごはんはそこで卵かけごはんだった。毎日毎日食べ続け、今でも美味しかったことは覚えているけど、ある日生卵はもう二度と食べなくて良くなった。
幼稚園に行く歳になった時、絵本が好きだったわたしにじいちゃんは言った。「幼稚園に行かなくてじいちゃんと一緒にいたら、毎月、幼稚園(雑誌)を買ってやるぞ」それで、幼稚園に行かなかった。
そもそもうちはよそ者で、家は大家族でおじさんおばさんも多かったけれど、同い年くらいの子どもとは、母さんの親戚3兄妹をのぞいてあまりつきあいがなかったし、自分も幼稚園という外の世界がこわかったのだろうと思う。
幼稚園に行かないかわりに、じいちゃんはカルタで遊んで字やその意味を教えてくれた。そのうち読み札で読み札を取るようになり、小学校に入ったら、誰よりも字が読めた。
夜は小学2年生まで一緒に寝た。学校で、「この中でまだお父さんお母さんお祖父さんお祖母さんと一緒に寝ている人はいませんよね?」と先生が言って、みんなが笑ったのでやめたようなものだ。
じいちゃんはお酒を一滴も飲めないので、お菓子好きな子どもの気持ちはよくわかっていた。大家族だったからもあるけど、チョコレートはよく箱で買ってきた。
書き始めればきりがない。買ってくれるみたいなこと以上の、あれもこれも、いくらでもあるのに驚く。8歳上のおじちゃんが、お前が生まれてオヤジが怒らなくなった、孫を叱らないないのに子どもを怒鳴るのは違うと思ったんだろう、それまでは死ぬほど怖かったと言った。
でも、わかっていることがある。わたしが生まれる20日前に、じいちゃんは、まだ小学校5年生の娘を突然亡くしたのだ。肺炎で入院して、あっという間に。おじちゃんを怒らなくなったのは、わたしが生まれたからではなく、自分の子どもを亡くしたからだと思う。そして、小さい女の子を亡くしてすぐに現れた女の子は、誰だって生れ変りだって思うよな、と。
さて、お通夜だ。遠い北の町のお寺に着いたのは暗くなってからだった。弟が手招きするので、一緒に祭壇の裏に回ると、そこには木のお棺があって、蓋をあけるとじいちゃんがいた。
あーじいちゃん、生きてるうちに会いたかったよ。
思わずほっぺたを触ると、じいちゃんは驚くほど冷たく、カチカチに硬かった。だけどほんとうに、じいちゃんに会えて、よかった。
火葬場へのマイクロバスは春の青空の下のまぶしいアイスバーンの中を行き、わたしは、じいちゃんの入ったお棺がドアの奥に入って行くとき、化けて出てきて!と叫んだ。でも、一度も出てきたことはない。霊感は全くない。
その晩から雪になり、朝起きると、景色は冬に戻っていた。一晩で30センチは積もったと思う。いつ、どれだけ泣いたか覚えてない。たぶんずっと泣いていたんだと思う。まぶたがぱんぱんに腫れた。
じいちゃんは、とびきり足が速かった。50代でも充分速かった。そして気が弱かった。若い頃山子をやっていた時、みんなが野犬を煮て食べたのを、見ることもできなかった。高等小学校しか出てないけど字が上手かった。時代劇と時代小説が好きだった。
背が高くて、かっこよかった。
そうなのだ。実は、悪いところだってあることを今はわかっている。でも、大好きな人から、自分というだけで無条件で愛された記憶ほど、生きていく糧になるものはなかった、と思う。
その後10年は、何回じいちゃんを思い出して泣いたかわからない。だけど今は、どんなに思い出すことはあっても、もう泣くことはない。
4月1日を毎年毎年忘れることはない。満開の桜と一面の雪景色をほぼ同じ時に見せてくれた。
50代後半のじいちゃん?