人生を考えることとウェスタホーベンの関係
ブログを始めてしまった。
しかもはてなで。なんか、はずかしい。
書こうと思っているのは、昔のことばかりだ。
嫌なことや恥ずかしいこと、辛いことがあると、いつも、忘れてしまいたくなって、忘れよう忘れようとしている間に、忘れなくてもいいことまで薄ぼんやりとしてしまった。
そんなこと思って、ブログを始めようとしてから、運命とか人生とか軽く考えている時、いつも浮かんできたのがウェスタホーベンがいる景色だった。
ウェスタホーベン!
あの時、心の中でわたしは名前を呼んだ。ウェスタホーベンは大学1年の時の、必修英会話の先生だったけれど、話したことは一度もない。それどころか、2年の頃からは頭の中からすっかり消えていたかもしれない。だけど、あのおっきい熊みたいな体、船橋駅前の雑踏の中で、あたま一つ抜きん出ていたのはぜったい、ウェスタホーベンだった。就職したてで、何もかもから遠く離れて、心ぼそかったわたしへの贈り物だった。
すでに遠く離れた弘前からの。
そして、わたしはただぼんやりウェスタホーベンを見ていただけで、ウェスタホーベンは群衆の中を京成船橋の方に進んで行き、見えなくなった。
それだけだ。
わくわくするような偶然のできごとが起きると、つい、運命だと思ってしまうのがわたしの悪い癖だけど、きっとそんなことはウェスタホーベンとすれ違うのとおんなじに、いつもどこかで起きている。それは悪くない。ちょっといいことなだけだ。
しかし、ウェスタホーベンが村上春樹のオランダ訳する人になってたとはな。
あの頃、もう村上春樹は習志野に住んでたかな。社用車で仕事サボってみんなで家を見に行った。